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2013年 8月 19日 (月)

兵士家に帰る


日本人ほどいまだに喜怒哀楽の表現が苦手な国民はいないのではないかと思う。

今は昔の三十数年前の話だが、空手の全国大会のある優勝者が両手を上げて喜びを表現したところ、他の選手や審判、来賓者の中からでも「あの態度は良くない」風の空気が少なからずあった。
ようするに感情を押し出さないところを良しとする国民性が深く根付いていたのだろう。今はかなり自由度が高い。

子どもが小さい時なら抱いたりほほずりしたり十分に堪能出来たのに大きくなるにつれスキンシップは遠ざかりしまいに普通のコミニケーションすら困難になる。

ひさしぶりに娘に会った。ハグする。ん?できない、ありえない。絞め技とか、固め技なら得意なのに・・・


<追伸>「ハグの仕方」講習を受けてもできないだろう。犬ですら全身で喜びを表現するのに、うらやましい、トホホ。


2013年 8月 17日 (土)

ある兵士のダンス


中心軸を養う腕振り運動、縦横のスワイショウは私にとって準備体操というポジションになく武術のメインの稽古法になっている。

さて先日ネットのあるダンスに目が奪われて何回も見直した。
飛び交うロケット弾をバックに装甲車の上で兵士がダンスをしているのだが、TPOを完全無視した過酷な状況!しかしユーモラスなことこの上ない。トム・ジョーンズの曲も懐かしくて、いろいろ調べてみたら元ネタは「カールトンダンス」といって、テレビ番組で有名なったのだそうで、いろんな都市で一斉にこのダンスをしようというイベントも行われているという。

スワイショウという稽古が単調すぎて長続きしにくいという人はこうゆうダンスから始めてみたらどうか(笑)。

Soldier Dancing like Carlton


The_Carlton_Dance


JUST DANCE 2 Its Not Unusual



2013年 8月 3日 (土)

起勢と合気上げの関係


1年近く公開稽古も書き込みしなかったけれど、最近またその気になってきた。

簡化24式太極拳の最初の動作である起勢(チーシ)は手を上げ下げするポーズであるけれど、あなどりがちだ。大概の人が深く考えず手を上げ下げしているだけのように見受ける。

昔、とある中国の太極拳の先生が起勢ポーズを行う時に手をって圧力をかけてみなさいと言われた。言われるがままに握って動けないようにしていたが、まったくその起勢の動きに反発することはできなかった。その先生はあらゆる動作の時でも静止させることはできなかったのだ。

手を上げるのではなく、手以外の体の部所が下がるイメージが正しい。手を下げるときは反対に手以外の部所は上がるイメージだ。しかし体感だけで実際には上がることはない。重心はあくまで下に、背中の軸は上へ上がっていく感覚といえる。その上下逆作用の中間である支点になるところが肚(丹田)だろうと思う。ようするに圧力がかかったところに意識が集中してその箇所に反発すると、ことごとく失敗する。

武術の型は適当な広さのスペースでおおむね数分で終了するようにできている。起勢(チーシ)の動作1回を行うのに、十数秒かかるとすれば、24式すべてを行うくらいの時間(数分)を贅沢に費やせばその体感は少しわかるはずだ。
第一なんのために武術の型が数分で終了してしまうのか。人が見てイライラしない時間だからだ。もしも太極拳の動作がカタツムリのように鈍かったら、演武会もできないし誰も見ない。

見物人のためにするものじゃなくて自分のためにするということにポイントをおかなければカッコだけの武術に終わってしまう。

合気下げの体感



2012年 8月 31日 (金)

水を得た魚


YouTubeを中心に大旋風を巻き起こしているグループに「ザ・ピアノ・ガイズ」(The Piano Guys)というのがある。
きっかけは「愛さずにはいられない」を弾いている動画をなにげなくyoutubeで発見してながら見していたのだが、クラシックやジャズのジャンルにとらわれていない感覚、そしてファッショナブルな映像。これは只者じゃないと、pianoguysのyoutubeオフィシャルチャンネルをくまなくチェック。すごい!

「ザ・ピアノ・ガイズ」結成のきっかけは、ネットに以下のように書かれている。

米ユタ州セント・ジョージの小さな田舎町のピアノ・ストアでピアノの販売にあたっていたポール・アンダーソン(Paul Anderson)のもとに、ある日、たまたま通りかかったピアニストのジョン・シュミット(Jon Schmidt)が少しだけピアノの練習をさせて欲しいとお願い。その申し出を快く受け入れ、練習をはじめたジョンですが、ポールは、そのジョンの演奏に圧倒されてしまい、それをきっかけにミュージック・ビデオを作成することに。その後ジョンが自身と7年共に演奏してきたチェリストのスティーブン・シャープ・ネルソンらも招きクラシックグループ「ザ・ピアノ・ガイズ」の結成に至ったようです。

現在彼らはYouTubeでの発表やアルバムづくりなどグループで行いながらも、各々の仕事を続けながらの音楽活動を行なっているようだ。

音楽の基本に忠実でいて、かつてなかった斬新なプロデュースが、一介のミュージシャン達の才能をくまなく開花させている。そしてなによりも気持ちよく演奏していて我々を魅了し癒しを与えてくれる。
元来、ミュージシャンにせよ、アーチストにせよ卓越した技術をもっているだけでは世の中に知られるとは限らないが、この例のような「水を得た魚」のようなプロデュースを得ると人は生き返る。





2012年 6月 25日 (月)

恐るべし洋弓


yumi.jpg
アーチェリー競技や、ファンタジーもしくは冒険映画で、しばしば武器としての洋弓を目にすることは多いが、こんなに眼からウロコの動画を見たことはない。というよりも、目に入らなかったのかもしれない。

Arrow in the Eye
http://www.youtube.com/watch?v=fvG1MIuKItE&feature=BFa&list=UUcMfrOX7f4B1ns7wTJe6pSA
なんという実戦的で素早い動きにさぶいぼ状態。

Legolas trick 2
http://www.youtube.com/watch?v=j5wq9z5HebA&feature=player_embedded
目の前でこういう素早い威嚇をされるとたぶん凍る

アーチェリー少女
http://www.youtube.com/watch?v=1o9RGnujlkI&feature=BFa&list=UUcMfrOX7f4B1ns7wTJe6pSA
前後に移動しながら華麗にシューティング。動作は放鬆(ほうしょう)している。敵を前にして無駄な動きは必要なく、的確にターゲットを射止めている。

少年パフォマンス(公演前の練習らしい)
http://www.youtube.com/watch?v=5nMKHfh7Ybw&feature=BFa&list=UUcMfrOX7f4B1ns7wTJe6pSA
命乞いして刺されてしまうパフォ-マンス
http://www.youtube.com/watch?v=oGVnK_ShseE&feature=BFa&list=UUcMfrOX7f4B1ns7wTJe6pSA
後ろから来た敵を振り向いて矢を射る動作
映画では出せないないような実戦的でリアルなパフォーマンス。
大人も子どももなく戦いの本質を垣間見るようだ。

http://www.yourepeat.com/g/Seregedel

おまけ
Oops... :D
http://www.youtube.com/watch?feature=fvwp&v=L7KiNS6PLSk&NR=1
和弓(弓道)は禅的な修行をメインにし、矢を射るまでの体感を重要視する。

それに対しスポーツとしての洋弓(アーチェリー)は正確に的に当てるという目的に絞られてきているような気がする。
弓(ハードウェア)の構造はより複雑により現代的になってきて、ビジネスとして成立する高級イメージの弓や矢・・本当にそれは必要なのだろうか?

しかし、うーん、目線が違うところに・・・・いかん!


2012年 1月 1日 (日)

登り竜


禅というのは、体を動かさないものだという先入観があるけれど、体は止まってはいない。本当に止まっている禅があるとすればそれは”死体”だけだ。座禅でも立禅で呼吸が実に安定しても、内部ではめまぐるしく微動していて外へ拡散しようとしている。

止まっている稽古も体を動かす稽古も同じ呼吸を使う稽古で、補助運動とか柔軟体操などと別けてしまうのは実に残念だ。以前に意拳でサルの木登り的な運動を以前に教わった。はしごを上り下りするときのように全身のつながりを考慮する。手だけの腕力ではしごを登る事はできない。同じような運動を太極拳のある流派でも見かけたし、空手でもある。マツムラパッサイの型などはこのような全身を使った運動方式に沿って行なうべきだと気づいた。

今年は辰年だが、この運動はなんか竜が昇っていく「登り竜」にも似た動きだ。ひざを十分にゆるめてハラから肩、ひじ、手首を通して動きを伝える運動で、最初は手を回して慣れてきたら手ではなく呼吸で体全体を使ってらせん状に回せるように稽古する。運動の途中に相手の接触があれば­、当たった側と反対の手が激しく反応するようなイメージづくりに心がけるとよいと思う。


サルの木登り運動もしくは登り竜 玄塾



2011年 11月 11日 (金)

接触の体感


相手の攻撃をいかに受けるかとか、いかに攻撃するとかばかり考えているような武道理論は、おうおうにして相手との接触時の体感は重視されていないように見受ける。

接触時の触感を無視して攻防の技術にこだわりすぎると、相手の力を利用もできないしコントロールもできない。
相手の攻撃のパワーやスピードに捉われてしまうと、肝心の相手の攻撃部位の触感や接触点の向こうにあるカラダの中心まで続く道筋の感覚を見失ってしまうのだ。

固い枝は見かけは強くても強力な相手に接するとすぐに折れてしまう。
だから柳の枝のように柔らかく相手に接触しなければいけないが、ただ柔らかいだけでは何の役にも立たない。例えると、折れた柳の枝自体で相手をさばくだけのことでしかない。これは本当に見掛け倒しのさばきになる。

柳の枝自体は柔らかいが太い幹につながっている。太い幹というのは胎(はら)であり、かかとは地面に入り込んだ根であるとイメージする。地に根が生えた大きな幹につながっている充実した柔らかさで相手に接しないと相手はさばき切れないと思う。

捕られた相手の力を利用する(1)


捕られた相手の力を利用する(2)



2011年 10月 9日 (日)

鉄人南の島で極楽養生法


余裕ができれば、どこか南の島にでも行って、ゆったりと座禅・静座をしたり武術三昧してみたいなと常々思っていたが、それを実際に実践してしまった親しい友人がいる。最近DVDにしてビデオレターを送ってくれたものを編集してみた。美しい自然とまったり流れる時間の中でゆったりとスワイショウやタイチを楽しんでいる様子で実にうらやましい限りだ。

禅とスワイショウは私には欠かせぬ稽古法で、スワイショウは頭のてっぺんと尻の間にクランクシャフトのような中心軸をイメージする。それを上下左右に揺さぶることにより軸のイメージを明確にしていく作業と考えている。左右の揺りは軸を研ぎ澄ますイメージ、上下の腕振り運動は軸の内部のおもりを垂直に揺さぶり軸を長く太くするイメージだ。タイチはできるだけゆっくりと動くようにする。24式なら一通りするのに微動、静止も含めて小一時間かかるぐらいでもよいと思っている。




2011年 9月 22日 (木)

構えとは


王向斎の意拳論(意拳・大成拳創始人王コウ斎伝・石川 鶴矢子訳 ベースボールマガジン社)に、「指先はつねに相手の口や鼻に向け、最大の力をもって相手の正中線を制御し、敵を威嚇することである」と述べており、細かく用法が具体的に書かれていて大変興味深い。

その紹介はまたの機会にするとして、私が思うに相手の正中線とは頭のてっぺんと尾てい骨を結んだライン上にあり、角度は垂直とは限らない。その正中線の中心は肚(はら)に位置し、おおむね上級者ほど動きは少ないので動きの予想はしにくい。

相手が向かう方向は構えたひざの方向にあり、それ以外真後ろ以外はほぼないといえる。前足に重心がかかっている立ち方はその方向にしか行けないが、前足に重心がかかっていない場合や浮いている場合は攻撃角度が急変する可能性がある。

相手を感知するアンテナのような役目を果たす手の先で相手を誘導しコントロールする。目の前の相手の後方を指差すだけで、相手の注意は一瞬でもそがれてしまうこともあるくらいだからおろそかにできない。逆にいうと相手の手に惑わされてはならず、相手に向けて相手が動けば角度を微調整するような柔軟さが必要だと思う。

しかし構えの手をいたずらに振り回さず、相手の注視を手に集中させるべく手以外の部位が寄ったり引いたりする。相手の攻撃に際して最初の接触があった方の手で独立して防御や攻撃をせず、接触の瞬間にすぐ後ろに待機している手にバトンタッチして即座に反撃に臨むペアプレイが最大の効果を生むと思う。

構えは本来相手を自分の領域に入りにくいようなバリアをつくるのがベストだ。構えと立ち振る舞いがビシリと決まった人に向かうと居ついてしまうほどだ。バリアは三角のキャンプ用テントに似ている。支柱(ポール)が細いと安定し
ない。中心軸が定まると支柱(ポール)はしっかりしてテントは揺るがない。テントの範囲がバリアと考えると、支柱がしっかりして太く高くなるとバリアは広がる。そのためには地道に禅的な稽古を継続しなければと自戒している。




2011年 9月 17日 (土)

地味な発力の話


武術における発勁・発力のデモンストレーションは、派手なものが多い。”ドミノ”という言葉を自分のブログ内でも検索したら3回も出てきているので、よほど「ドミノ倒し」的なデモが印象に残っていたのだろう。何人も数珠繋ぎに並べた人を発力で押して倒すのであるが、あれはやはりショー的な演武デモといえるだろう。人ひとりでは迫力がないからたくさん揃えましたみたいな感覚でしかない。元来、武術の稽古は人に見せるものではなく、迫力も必要ない。地味を絵に描いたように地道に稽古するものだ。

発力というものはそれ自体がパワーを持っているものではなく、パワーを持っているのは実は相手のほうである。相手のパワーをいかに減衰させずに送り返すかということにある。よって、思い切り押してくれば思い切り反動し、そっと押してくればそっと押し返される。そっと触れただけで大きく吹っ飛ぶというものではない。

軸をコントロールすること
http://www.gocoo-serv.net/wushu/blog/blog.cgi?n=320&search_word=%83f%83%82
推手のデモ
http://www.gocoo-serv.net/wushu/blog/blog.cgi?n=285&search_word=%83f%83%82




2011年 9月 14日 (水)

野馬分そうの別使用法


noma.jpg
太極拳の”野馬分そう”(イエマフェンゾン)は、相手の攻撃に対して分けて入るポーズであるが、”雲手”同様に相手に手を押さえられたり捕られたりしたときにも有効だ。

技のポイントは手で相手を押したりせず、むしろ接点の手はその場に固定し、接点以外の肚(はら)を含めた四肢が動き出すことによって成り立つ。攻撃に対して防御やさらなる攻撃でカバーしようとすると逆に失敗する。とられた手は反撃をあきらめて圧力を同じくしたまま放置し、その他の部位が前に出て行くのである。いずれにせよ力ではなく相手の軸を確実にとらえることが必要だ。




2011年 9月 12日 (月)

手の中の小鳥-鉄拳


kotori.jpg
鉄拳という言葉は、拳を鉄のように固めて攻撃するというイメージがある。手を武器化するという意味合いにおいては正しいと思うが、それが相手に対してどのようにダメージを与えるかはまた別の問題である。

ビル解体用のでかい鉄球は、遠心力によって硬いコンクリート壁を部分的に破壊することができる。この論理がそのまま人間にあてまはるとは思わない。人間の体はコンクリート壁ではない。野口三千三氏が「原初原初生命体としての人間」の中で言っていたように、むしろ水の詰まった分厚いゴム風船のほうが近い。ゴム風船の中に骨格や内臓などが詰まっているような感覚といえる。球の大きさが同じならば中が空洞の軽いステンレス球のほうが、相手に波動的ダメージを与えるという点では、優れているように思う。到達スピードもはるかに速い。

中国拳法である意拳の拳の握り方は、手の中に小鳥を抱いたような握り方をすると指導する。
がっしりと握らず少し手の中に空洞をつくった握り方だ。

空手など開手型以外の正拳では、指をしっかりと隙間なく折りたたんで握れと指導を受ける。何故なら、実際にゆるんだ拳で格闘した場合たいがい手を傷めてしまうと積み重ねた経験則からわかっているからだ。胆力のない者がいたずらに手を開いて相手と対峙していると、指の捻挫や骨折しないかとあぶなっかしくて見ていられないほどだ。そういう意味では、意拳の指導方法はいささか誤解を招く。

拳を鍛える稽古法としては、手をビル解体の鉄球のようにビル解体でも始めるのなら固い巻き藁やサンドバッグなどが必要かもしれないが、長く武術を継続するするつもりであるならそれは止めたほうがいい。
「老子」の中でも緩めるためには硬くしなければいけないとあるように、指や手足などを硬く緊張させて緩めるという、緊張と緩和の相対的な距離を広げていく稽古によって、緩めた手に瞬間緊張させるのである。

具体的には座禅か静座で開き切った両手を緊張させてゆっくりと超スローで指先から握りこんでいく。握りこんだら又緊張させる。それを繰り返すのだ。これは古来からの養生法のひとつである。突きのイメージでそれをするときは、指先を手前に縮めていかず前に折りたたんでいくようにする。いずれもこれをゆっくりと繰り返す。

拳は前に出すもの
http://www.gocoo-serv.net/wushu/blog/blog.cgi?n=134&search_word=%88%AC%82%E8

手の中の小鳥
http://www.gocoo-serv.net/wushu/blog/blog.cgi?n=179&search_word=%8F%AC%92%B9

理科室の人体模型
http://www.gocoo-serv.net/wushu/blog/blog.cgi?n=40&search_word=%96%EC%8C%FB%8EO%90%E7%8EO....


2011年 8月 18日 (木)

ブログ再開


fuku.jpeg
去年の7月中旬から、毎日ブログを更新したら

どのくらいの期間書き続けられるか試していたのですが、

ちょうど7月末まで1年と少し続けることができました。

今後は、気の向くまままた書き綴っていこうと思っています。

今後ともよろしくお願いいたします。


2011年 7月 30日 (土)

速度リミッター


50.jpg
50cc原動機付自転車、いわゆるミニバイクの法定の制限速度は時速30Kmだが、速度リミッターは60Kmに設定されている。ようするにそれ以上の速度はでないようになっているが、違法承知でそれをはずしたとするともう少し速度は出る。改造すれば100Km近くのスピードが出て、レーサー仕様は毎分2万回転以上で170km以上の猛烈なスピードで走りぬけることができる。

このように50ccのエンジンの潜在能力はずば抜けているのだが、原付の法定速度をはるかに超えた時速60kmを大型バイクとの回転数を比較すると桁外れに、安定度が落ちる。もし道路状況により危険を察知した場合もリミッターがかかっているのでそれ以上急加速することはできなくて、非常に危ない。いかなる速度で巡航しているときも急加速してトラブルから回避できるような、”積極的安全運転”ができないのだ。速度リミッター自体も問題はあるかもしれないが30kmという法定速度との兼ね合いからきているものだろうから仕方がない。

中国の高速鉄道は安全より速度を重視したまさしくこの原付の速度リミッターすら無視し、限界速度に挑戦していたようなものではないかと考える。おそらく速度的なものは問題の一部分であり、複合的な技術の問題点やインフラ、利権などが絡み合っているとは思う。以下のサイトに鉄道計画にかかわった興味深い2人の男女の物語?が紹介されているが、まるで中国の歴史書『十八史略』の現代版を読んでいるような錯覚に陥ってしまう。

高速鉄道事故の陰に腐敗と安全軽視“鉄道金脈”を食い物にした男と女
http://diamond.jp/articles/-/13372


2011年 7月 29日 (金)

見えるものと見えないもの


hana.jpg
コンピュータを構成している電子回路や周辺機器などの物理的実体のことを「ハードウェア」と呼ぶ。これに対し、コンピュータを制御する手順・命令をまとめたものをソフトウェアと呼ぶ。

個人的には世の中のすべてのものを無理やり単直に二つに分類するとすれば、「目に見えるもの」と「目に見えないもの」に分けられると思っている。なので「ハードウェア」は見えるもの、「ソフトウェア」は見えないものと分類している。「パソコン」「マウス」「キーボード」は見えるのであり、「プログラム」「データ」などは見えないものだ。

日常生活で例えると、テーブルに並べられた夕食は「見えるもの」、それを作った人の手順やプロセスや気持ちは「見えないもの」に分類される。

とはいうものの、見えるものはみなが平等に見えているのかというとそうではない。例えばパソコンに興味がない人はパソコンを見ても理解できずただの箱としか見ていない。本屋の店内をうろついていてもパソコン関連の本が並べてあっても気もつかない。ところが、何かのきっかけでパソコンを始めだすと、今まで箱としか認識していなかったパソコンという物体に色がつき出すのである。感情をもたないハードウェアのシグナルを感じ出すのである。

同じ道を歩いていても、花の好きな人はいろんな種類の花や草花が目に入るが、花に興味のない人は花からのシグナルがないのでただの風景になっている。陶芸の好きな人はどこに行っても食器やカップなど陶器が目に入るが、興味のない人にはただの器なんだろうな。


2011年 7月 28日 (木)

悪魔の存在


case.jpg
悪魔というモノが存在すれば、たとえばこういう風に人間に迫ってくるものだろうというサンプルのような映画がある。悪魔というはっきりした実体が視覚的に見えるのであれば、怖さの実体が目に見えるわけであるが、究極的に邪悪な魂を持っているにもかかわらず悪魔の仮面を被っていないものはその存在自体が信じがたいものだ。たとえば悪魔がいたいけな少女の姿であれば、表面的にはわからない。

映画「ケース39」は、予定では2008年の春に全米公開される予定だったようだが、延びに、延びて2010年の10月にようやく全米公開になったといういわく付きの映画だ。オープニングからして児童虐待という隠しようのないストーリー展開が繰り広げられる問題作だ。

両親にオーブンに閉じ込められ焼かれる寸前に救出される少女を里子にするソーシャルワーカーが主人公なのだが、メインのプロットは児童虐待ではない。虐待を受けている子供達を救う仕事のレネー・ゼルウィガー扮する主人公とその可哀想な少女の隠された悪魔性との戦いがテーマである。その少女とかかわる人すべての人が不幸のどん底に落とされていく。

ゾンビやドラキュラ、エイリアンなど怪奇映画などは、その悪魔的姿を複数の人が目撃してそれと争うものが多いが、もしある人だけにしか見えないとすれば、気のせいだ精神的病だと思われても仕方がない。この映画の場合、全編を通じて悪魔の本体は一切顔をださないので、映画がラストを迎えても、途中で死んだ人々の死因は少女のせいではなく別のところにあるのではないかとか、主人公の女性の少女に対する意識は妄想、意識障害だったのではないかとも受け取ることが可能だ。姿を一切見せないということが実に悪魔の本意に沿った方法論なのである。そういう意味ではきわめて薄ら寒くて怖い映画だ。


2011年 7月 27日 (水)

雑踏を逆走する


zatto.jpg
もし禅問答で、もし「雑踏の中を人に接触せずして逆向きに走り抜けるにはどうする」という公案があったとする。

雑踏の中を人の流れと逆向きに対抗しながら走り抜けるとすれば、どこかで人に引っかかってしまう確率が高い。武術はそれを敏捷性でかわしながら走り抜ける感覚を養うのだとどこかで聞いた事がある。しかし、私はそうであるとはまったく思わない。そういう訓練だけでは速さに対して速さで勝負するという速度の呪縛から抜けられないと思うからだ。

もっと武術的に表現すると、「相手が強烈な突きで攻撃してきた場合にどう受けるか」という速度的な命題に対して、「それをすばやく察知してすばやく受ける」という格闘技特有の速度感覚で捉えると、いつまでたっても速度から逃げることが出来ないのだ。

禅問答の答えとして「柱のようにして立つ」というのはいかがだろうか。
武術の禅的感覚というのは先ほどの雑踏での逆走でいうと、雑踏の中でサンドイッチマンの如くじっと経っている感覚に例えることができる。おそらくほとんどの人が避けていってくれるはずだ。本当に柱が路の真ん中にあればその避けてくれる確立はほぼ100%に近い。何事が起ころうとも限りなく本当の柱のようにただただ不動で立っているだけの状態になればなるほど、人は意識もせずに避けていってくれるようになる。心斎橋あたりで柱に成り切れたとすると、短時間で何千人もの人と接触せずしてすれ違うことができるだろう。単に猛スピードで逆走すればどこかで引っかかってしまう。

長時間静座や禅をしたあとすぐの個人的感覚だが、速度感覚が麻痺するというか、研ぎ澄まされるというべきなのかどうか表現はわからないが、人の早い動きも詳細にわかりやすくスローに見えるときがある。ただしコントロールが難しく、やがては消えてしまう。

禅的効果のずっとずっと先であると思うが、速度の呪縛が外れると、今度は雑踏の中のすべての人が止まったように見えて、結果その人波をスイスイと遡上する鮭のように川上に泳いでいける感覚が出ればすごいだろうと思う。まるで、映画マトリックスの世界だ。


2011年 7月 26日 (火)

メモ4-精神修行


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個人的な稽古の中での静座法は、
武術システムの中核をなすものだが、
精神修行として捉えていない。

体軸の存在を呼び覚ます方法論であり、
鍛錬法として位置づけている。

精神の修養として静座法をしていないので、
テレビを見ながらでも、パソコンをしながらでも、
人としゃべっているときでも可能だ。

はたまた静かな場所を選んだりする必要もない。
数分でもいいし、数時間でもいい。

ただただ背筋を伸ばし腰を立てて座ることに尽きる。
そういう姿勢のとき一番長く深い呼吸が可能になるから。
背中に太い軸の存在を感じることだろう。

立禅や歩行禅や仰臥禅もあるし、それらを含めて禅として
捉えているが、まずは座禅(静座法)だろう。

静座をする環境や時間などにこだわって選りすぐってばかりいる人は、
そういう絶好の機会が与えらえたとしても見逃してしまうと思う。
しようと思っている人というのは、していない人のことだ。


2011年 7月 25日 (月)

トゥルーグリット


true.jpg
コーエン兄弟の映画といえば「未来は今」「ファーゴ」が好きだった。最近では「ノーカントリー」という映画もあったが、ハビエル・バルデム演ずる執拗に追いかける殺人者には凍りつくほどびびった。彼らの映画は唐突に状況が急変するようなシーンが多い。しかし、2010年の映画「トゥルーグリット」は、重厚なつくりでストーリーも平坦かつストレートだ。すなわち気丈夫な14才の少女が殺された父親の仇を討つために、ジェフ・ブリッジス扮する飲んだくれの片目の賞金稼ぎを雇って旅に出るというストーリー。そこにテキサスレンジャー役のマット・デイモンも絡んでいくロード・ムービーだ。

まるで黒澤明の時代劇を観るように、時代も道具も古めかしく又リアルで重厚感がある。脇で出てくる黒人の少年やネイティブ・インディアンの子どもたちの雰囲気も時代に染まっている。片目の賞金稼ぎが何の意味もなく、座っているインディアンの子どもを蹴倒したりするシーンも出てくる。普通なら素直にカットされるようなシーンだ。しかしその時代なりの差別意識も含めた時代を表現したかったのだろうと私は捉えている。

敵を追いかけていく旅の途中、野宿の焚き火のシーンは私にとって特に好きなシーンである。シーンというよりも野宿+焚き火というそのワイルドなライフスタイル自体が魅力的だ。銃撃戦も非常にリアルな感覚にあふれており、全編がその時代にタイムスリップしたかの錯覚に陥る映画で西部劇も変化しているように感じた。


2011年 7月 24日 (日)

大人のための幽霊話


denwa.jpg
昔、地域が主催した小中学生のためのお泊りキャンプがあってそこで話した幽霊話が大人にも子どもにも大いにうけたので紹介する。

<導入話>
「私が高校生のときの大好きな弁当は、たまご肉そぼろ弁当だった。今日は私がすきなその弁当だと母親がいうので心なしか楽しみにしていた。待ちに待った昼休みに弁当のふたを開けると、ご飯のみで肝心の具が入ってない。あっ!また、母親が入れ忘れたんだ。くっそー、たまご肉そぼろ弁当大好きやったのに悲しい・・・としばし呆然・・・。しかし待てよ、ふたが少々重い、なんでかなとふたを見ると・・・・」
「おかずは、ふたに引っ付いとった。」←ここで笑いをとる。

<本番の幽霊話>
「ある子どもがオモチャの電話でずっと1人遊びしている。母親が、「誰と話しているの?」と聞くと子どもは、「おじんちゃんと」と答えた。母親は背筋が寒くなった。何故なら、その孫が好きだったおじいちゃんは、数ヶ月前に病気で亡くなっていたのだ。子どもも好きだったおじいちゃんのことが忘れられないのであろうと、その電話遊びはとめなかったのだが、何週間経っても1人遊びを止めない。それよりも本当におじいちゃんと本当に話をしているような感じで話しているので、気味悪くなってこどもと電話を替わって受話器に耳を当ててみたが、なんにも聞こえない。それから数ヶ月経っても子どもが死んだおじいちゃんとの電話遊びを止めないので、さすがの父親までもが心配になってきた。その家族が住んでいる家は田舎にあったので、火葬ではなく土葬であった。そこで親戚一同が集まって、ひょっとしたら、じいちゃんは死んでいないのではないか?死んだ人には悪いがこそっと墓を調べようということになった。そして一同で墓場に行き土を掘り返していくと、やがてお棺が出てきた。そして一同がお棺のふたを開けると・・・・・・・あ!、おじいちゃんがいない!」
「ぎゃーーーーー!!!」←驚かす。そして、間をおいてから

「お棺の裏をみると・・・・・・おじいちゃんはふたに引っ付いとった」

この話は、昔に深夜ラジオで聴いた幽霊話(ブラックジョーク?)を少しアレンジしたのであるが、ご老人を扱う話なので、話す場所や状況に注意し、死を軽く見るのではなくいかに子どもがおじいさんを慕っていたかに重点をおかなければヒンシュクを買うことになる。


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